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難波八十嶋のゆかりの地 佃島 iPhone Photograph

猛暑の夏が過ぎ過ごしやすくなった頃を見計らい「濱きよく浦なつかしき神代より千船の泊まる大和田の浦」(読み人知らず)と詠まれた淀川の下流部に海に臨んだ地に難波八十嶋と言われた島々があった千船の地を歩きました。このあたり住民のかたか、歴史探訪ですか?と親しげに話かけて来る方が数人もおられ高齢者が地図を片手に歩くことに何故か関心を持たれてしまった。ことも大阪らしさがあるのかと思いました。
 境内に佃漁民の碑が建立され徳川家康と佃の漁民のゆかりを伝えています。
徳川家康が天正14(1586)大坂住吉大社から多田神社へ参拝のおり、神崎川の渡船を佃漁民が務めた縁で家康が江戸幕府を開府後特別な関係が結ばれた。慶長17(1612)将軍家に献魚の役目を命じられ、佃村の庄屋森孫左右衛門と佃、大和田の漁民34名が江戸に入りました。
 その後「江戸の近辺は海のどこで漁をしてもよい」と特権が与えられさらに日本の全ての海も拡大された。幕府隠密として海の監視が目的であった。そして大坂の佃漁民もこの特権が与えられた。江戸に定住した佃漁民は隅田川河口の干拓地を造成し正保元年(1644)に完成させその土地に大坂の故郷と同じ佃島と名付け現在の佃島が発祥となった歴史があります。

 千船駅から先ず訪れたのは、1000年も前に「雨により田蓑の島々をけふゆけばなにはかくれぬものにぞありける」(紀貫之)と詠われた田蓑神社でした。左門殿川(江戸時代に堀削された運河)と神崎川が分流する突端付近の佃町の田蓑神社は住吉の大神を祀る佃の産土神です。昭和初期までこの付近は鬱蒼とした森に囲まれていたと伝えられています。
境内に佃漁民の碑が建立され徳川家康と佃の漁民のゆかりを伝えています。
今はすっかり海抜0メートル地帯となり高い堤防に囲まれて昔の面影はなくなり住宅地なってます。
その昔、徳川家康が天正14(1586)大坂住吉大社から多田神社へ参拝のおり、神崎川の渡船を佃漁民が務めた縁で家康が江戸幕府を開府後特別な関係が結ばれた。慶長17(1612)将軍家に献魚の役目を命じられ、佃村の庄屋森孫左右衛門と佃、大和田の漁民34名が江戸に入りました。
 その後「江戸の近辺は海のどこで漁をしてもよい」と特権が与えられさらに日本の全ての海も拡大された。幕府隠密として海の監視が目的であった。そして大坂の佃漁民もこの特権が与えられた。江戸に定住した佃漁民は隅田川河口の干拓地を造成し正保元年(1644)に完成させその土地に大坂の故郷と同じ佃島と名付け現在の佃島が発祥となった歴史があります。




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