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iPhone Photograph 新世界 黒門市場

第89回国展が大阪市立美術館で開催され絵を学ぶ知人の先生が国画会の会員でもありそのため招待券が送られてきたため会場に向かいました。
会場には絵画と版画、彫刻、工芸、写真と大作が展示され圧倒される思いで鑑賞した次第です。解説によりますと国画会は創作の自由をモットーに個性を重視すし多様化する表現様式と新しい世代にも呼応する美術団体とのことで現代美術の流れを久しぶりに楽しむことができました。
入館する人も多くこれだけの美術品がわずか一週間の開催とはもったいない。のですが大阪の原時点での文化への取組施策では仕方がないのでは・・・・・
梅原龍三郎、練方志功、河合寛次郎、木村伊兵衛氏など各界の巨匠が活動に貢献されています。







国展を鑑賞後、天王寺公園から新世界へと向かい賑わいを眺めながら軽食をとり近鉄線日本橋駅へ向かうため、現代では大阪の食べ物の伝統を唯一継承する黒門市場にはいり賑わう通りを歩きこの時期のみ売られている水ナスの漬け物を買い求めて帰宅した次第です。
黒門市場はほとんど訪れる機会はないのですが美味しい食材を求める人は絶えないようです。

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芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

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