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文学周遊 堺市 河口慧海 チペット旅行記




河口慧海顕彰立像 碑文  南海七道駅前

雪山道人 河口慧海師は日本西蔵學の祖 日本最初のヒマラヤ 西蔵踏破者 かつ在家佛教首唱者である 1866年堺市生まれ 十五歳釈迦傳に感奮し以来禁酒禁肉食不淫を貫いた 得度 佛典の正解は原典んいし西蔵譯によるにしかずと悟り入蔵を決意 印度 ネパールを経由  1900年厳重鎖国化の西蔵に密入国しセラ大學に學ぶ傍ら 醫療で名醫を博し法王のの知遇を得た 身元發覚を恐れ印度に脱出したが交友の下獄を憂え鎖国化のネパール國王将軍に直訴しさその取りなしで法王に交友の赦免を訴えた 翌年から十一年間 印度 ネパール 西蔵に趨く 両度の旅行により梵蔵 西蔵教 佛像 佛具 植物標本等を多数齋す 以後 西蔵學 佛教學関係諸活動に努めると共に還暦を機に還俗し在家仏教の宣揚にに努めた1945年寂 師は物事の本質に徹する實務的求道者である その慈悲心 不屈 実直 正確さの精神により國境を越え世界の人心に感動を與えた
                             1983年 
 理学博士  川喜田 二郎撰
    河南    奥野  幸夫書
と刻まれている。

印度、チベットに30代40代を過ごした河口慧海は、探検家としてのみではなく思想家として日本文学史、思想史、宗教史としてにおいて日本における最後の僧でありチベット旅行は思想上の探索のための行動であると評価されている。
チベット旅行記、第2回チベット旅行記は、青空文庫でも読むことができる。

仏教の原典を求めて当時外国人の入国を許さなかったチベットやネパールへの入国は命がけの行動だった。子供から俗語も学び、過酷な自然に耐えるために石を背負って山登りの練習をし情報を徹底的に集め判断し決断し関所を避けた密入国とはいえ間道ののまた間道を選んで念願のラサに日本を出国した四年後に到着した。

画像 河口慧海生家の碑
 碑文 
日本人として初めてチベットを訪れた河口慧海(幼名定治郎)は、慶応二年(1866)はこの地で桶樽を家業とする父善吉、母ツネの長男として生れた。信仰心のあつかった両親の影響と15歳頃に読んだ釈迦伝によって仏教に深い感心を持った彼は苦学ののち25歳で仏門に入り慧海の法名を受けました。
 28歳のときかねてより胸中に抱いていたチベット行きを決意し4年後の明治30(1897)単身神戸をたちました。彼のチベット行きは真のものを求める生き方から必然的に生れたものであって冒険家として日本人がこれまで踏み入れたことのない国へ赴くことが目的だったのではありません。
 しかし二度の困難な旅によってサンスクリットの貴重な研究などに励んだのち多くの仏典と動植物を持ち帰ったことは、彼が本来目的とした求道行為にとどまれず、結果的にはチベットという国の様子を我が国に紹介すると同時に仏教界に大きく寄与しました。また後年動植物の標本の中から新種が発見されるなど生物界にも貢献しました。
晩年、僧籍を返還しましたがその後も自分を律し精進する生活を続けながら仏教の原点を追求しそれに関わる著書の執筆にあたりました。
 と民家の狭間の狭い空間に碑と金属板が碑が建立されている。

海外では河口慧海の記念碑・記念館は
記念碑 チベット ラサ セラ寺
記念碑 記念館 ネパール カトマンズ にある。

生家跡の現在の北旅篭町の風景
第二次世界大戦終末期の1945年(昭和20年)3月から8月までの5回にわたり住宅地を目標とした米軍の空爆により壊滅的被害を受け戦前の建物はほとんど残っていないが、慧海の生家跡の付近に古い建物はわずかですが残っているようです。
清学院
堺市の北端に所在し、元禄2年(1689)の『堺大絵図』には「山伏清学院」の名で描かれ修験道の道場としての歴史を持っていた。江戸後期から明治初期にかけては「清光堂」(せいこうどう)の名で寺子屋としても使われており、北旅籠町で生まれ、仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った河口慧海もここで学んでいました。


河口慧海の経歴を簡略しますと
1866年現大阪府堺市北旅篭町生まれ。
1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け出家する。1892年(明治25年)には大阪妙徳寺に入り、禅を学ぶ。その後、五百羅漢寺の住職を勉めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。
 およそ1年ほど現地の学校に入学しチベット語を習いつつ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートにより行動することにした。
1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに行き、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラより釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。1899年2月、ネパールの首府カトマンズに到着した。
当地にてボダナートの住職であるブッダ・バッザラの世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。同年3月、カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山技術を学びつつ過ごしながら新たな間道を模索した。
 1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。
 1900年7月4日、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラという峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入区にに成功した。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達した。
 チベットで二番目の規模を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。たまたま身近な者の脱臼を治したことがきっかけとなりその後様々な患者を診るようになる。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。本名としてはセーラブ・ギャムツォと名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになり法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際、侍従医長から侍従医にも推薦されたが仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸で居住した。
 1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明するおそれが強くなりラサ脱出を計画した。 親しくしていた薬屋の支那人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出し厳重な関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンに到着した。
 1902年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了、偶然出会った探検家の藤井宣正、後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているネパールに赴くき翌年1903年(明治36年)3月、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功しまた国王より多くの梵語仏典を受け取っている。
 1904年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に6年ぶりに和泉丸に乗って帰国した。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。
 1903年(明治36年)に多数の仏典を持ち帰国した慧海は、まるで凱旋将軍のように迎え方をされ各地から講演の依頼が殺到した。チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、慧海のチベット旅行記は信じられない虚偽だとその名声とともに妬みや中傷を受けることはさけられなかった。しかしながら学会や仏教界ではその真偽を疑い疑惑だと孝徳秋水は萬朝報で、東京地理学会等で正当な評価を受けることはなく極めて悪質な中傷記事が書かれた。
 だが慧海のチベット旅行は。欧米の探検家やチベット学者の評価は高く入国困難なチベットへ入国したのではなく政治、社会そして風俗の記述がS・へディン、P・ランドン等のチベット関連の書籍とともにその後にも引用されている。
 河口慧海は1913年(大正2年)~1915年(大正4年)にも2回目のチベット入境を果たしている。ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科、京都大学等によって管理されている。
 英訳では1909年に「Three Years in Tibet」の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。帰国した後、1921年(大正10年)年に還俗する。その理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている。
 鎖国状態にあったチベットを目指した。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果している。帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、1921年(大正10年)年に還俗し釈尊中心の純粋仏教を唱えることで在家仏教を提唱した。
また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、1945年2月脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で80歳で死去した。
半世紀後に入国した文化人類学者の川喜田二郎氏は慧海の歩いた村で英訳のチベット旅行記を提示され、画家の平山郁夫氏も慧海について語る僧と面会したこともありチベットの知識人にはよく知られている。
 仏教の原典を求めたいとという求道者の一心から厳重な鎖国を敷くチベットにあらゆる困難を克服して単身入国を果たした河口慧海氏の紹介である。

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