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文学周遊 森 鴎外 大塩平八郎 


 成正寺 大塩事件殉難者追討碑 19875月建立。

洗心洞跡碑 昭和43年3月
造幣局が建立した長文の説明には
大塩平八郎中齋の家塾
 洗心洞旧蹟

大塩平八郎は 寛政5(1793)に大坂大塩家の8代目として初代からの屋敷であったこの場所で生まれた。
初代は六兵衛成一といい 名古屋にある本家の大塩波右衛門義勝の3男であって 大坂町奉行所付きの与力となり 代々その職を継承してきた
平八郎は7歳のとき 父母に死別し 祖父母に育てられ 14歳で早くも与力見習となり出社した 。成年に達して後 祖父 政之丞の跡を継いで与力となり天保元年(1830) 38歳のとき退職して 養子 格之助にその職を譲るまで 20数年間与力の職にあり 清廉潔白かつ学識ある名与力として多くの功績を挙げた。
平八郎は 青年時代に3度び人生観の転換があり 遂に王陽明の学問に心酔して245歳頃から自邸で儒学の講義をしていたが 文政8(1825)学塾を開き 「洗心洞」と名付けた 洗心とは 易経繋辞伝に」聖人此レ似テ心ヲ洗ヒ 退イテ密ニ蔵ス」とある文から採り洞というは 塾舎の意味である。
屋敷内に講堂と塾舎を設け 塾生を寄宿させ 通学生と共に日夜文武両道を教授したその門弟は4050人に達したという 学風は非常に厳格で子弟の名分を正し 知行合一の実学を重んじた。号を中齋と称し 著者に「洗心洞箚記」の外数種の名著がありその他の詩文も名作である。
天保8(1837)前年よりの飢饉によって難民が多くでたことを見るに見かねて 一身を犠牲にして救民運動と政治覚醒運動を起こしたが 事遂に成らず同年327 (大阪市西区)において格之助と共に自刃した行年45歳であった。
附近には砲弾により裂かれたが残っているこの所は 大塩家代々の屋敷跡があり その家塾「洗心洞」の旧蹟である今ここに大阪市が記念碑を建てられるに当たり その由来を略記してこれを顕彰するものである。
なお 大塩平八郎父子の墓は 大阪市北区末広町 成正寺にある。
と詳細な説明が残されています。

天保の大飢饉と大塩平八郎
稲刈り時期に雪が降ったというほどの異常気象が原因で天保の大飢饉(18331839)が起こりました。餓死者は30万人を越え、全国各地で一揆や打ち壊しが多発。大坂では奉行所の役人たちは堂島米市の米を江戸に送って幕府の機嫌取りに奔走し、また豪商たちが米を買占めたので、米価は6倍にも跳ね上がり、市中でも餓死者が出る有様でした。平八郎は東町奉行・跡部良弼に対して蔵米(幕府が保管する米)の開放や、豪商の米買占め中止を要請しましたが跡部は拒否。それもそのはず、実は跡部自身が豪商と癒着して利を貪っていた張本人でした。やむを得ず平八郎は蔵書1000冊を売却して得た600両で施しを行い、さらに豪商・鴻池に自分と門人の禄米を担保に1万両の借金を申込みましたが、これは跡部の根回しで拒絶されました。

与力役宅門
東町奉行所中崎家の役宅でした。かってこの地には数多くの与力宅が並んでいましたが現存する建物はここのみです。
与力は現在の組織に当てはめると、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった。警察に限って言うなら現在の警察署長級だ司法員としては民事・刑事裁判ともに詮議担当もしたので裁判官的側面、また行政面において行政官として配下の同心を指揮・監督する管理職的側面も存在していました。与力は役宅として300坪程度の屋敷が与えられました。

小説にも登場する川崎東照宮跡

平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗(はかど)つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々(うけもち/\)(うけもち)の為事(しごと)をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討()ち果(はた)したとか、今奥庭(おくには)に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎(そのたびごと)に平八郎は只(ただ)一目(ひとめ)そつちを見る丈(だけ)である。
 さていよ/\勢揃(せいぞろひ)をすることになつた。場所は兼(かね)て東照宮の境内(けいだい)を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前(ぢやうまへ)の開()いてゐたのを知つた。行列の真()つ先(さき)に押し立てたのは救民と書いた四半(はん)の旗(はた)である。次に中に天照皇大神宮(てんせうくわうだいじんぐう)、右に湯武両聖王(たうぶりやうせいわう)、左に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書いた旗、五七の桐(きり)に二つ引(びき)の旗を立てゝ行く。次に木筒(きづゝ)が二挺(ちやう)行く。次は大井と庄司とで各(おの/\)小筒(こづゝ)を持つ。次に格之助が着込野袴(きごみのばかま)で、白木綿(しろもめん)の鉢巻(はちまき)を締()めて行く。下辻村(しもつじむら)の猟師(れふし)金助(きんすけ)がそれに引き添ふ。次に大筒(おほづゝ)が二挺と鑓(やり)を持つた雑人(ざふにん)とが行く。次に略(ほゞ)格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗(くろらしや)の羽織、野袴(のばかま)で行く。茨田(いばらた)と杉山とが鑓(やり)を持つて左右に随ふ。若党(わかたう)曾我(そが)と中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)とが背後(うしろ)に附き添ふ。次に相図(あひづ)の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立(おもだ)つた人々で、特(こと)に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀(きごみたいたう)で、多くは手鑓(てやり)を持つ。押(おさ)へは大筒(おほづゝ)一挺(ちやう)を挽()かせ、小筒持(こづゝもち)の雑人(ざふにん)二十人を随へた瀬田で、傍(そば)に若党植松周次(うゑまつしうじ)、中間浅佶(あさきち)が附いてゐる。
 此(この)総人数(そうにんず)(およそ)百余人が屋敷に火を掛け、表側(おもてがは)の塀(へい)を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時(どき)である。先()づ主人の出勤した跡(あと)の、向屋敷(むかうやしき)朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋(てんまばしすぢ)の長柄町(ながらまち)に出て、南へ源八町(げんぱちまち)まで進んで、与力町(よりきまち)を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回(うくわい)して船場(せんば)に向はうとするのである。


大塩屋敷向いの与力・朝岡助之丞の裏庭には槐の木があり、平八郎が撃ち込んだ砲弾の第一発が打ち込まれました。乱後も約150年の長きにわたって生き続けましたが、昭和59年(1984)、車の排ガスの影響で枯死。伐採されました。

             大塩平八郎終焉の地

碑文は
大塩平八郎中斎(1793~1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、 陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。 天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を 断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
乱後大塩平八郎は・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛 宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼び かけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時 代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。
1997年9月 大塩事件研究会
成正寺大塩平八郎墓所 


大塩平八郎と平八郎の養子・格之助の菩提寺です。江戸時代は大罪人の大塩親子の墓は許されず、明治半ばに、ようやく子孫の手で建立されました。空襲で破壊され、昭和32年(1957)に復元されています。
 中江藤樹が確立した陽明学をひも解くと知識だけの学問に飽き足らず自己完成という実を求めて藤樹の私塾は、藩校や私塾にない人格を核とする個性尊重の道場だった。陽明学派の祖とされるわりに内面を重視した藤樹学だが流派から熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰、西郷南洲庄屋平兵衞、山田方谷、河井継之助、佐久間象山と歴史上の行動家を生んだ。
 中江藤樹は慶長13(1608)近江国高島郡小川村に生まれる。15才祖父吉長の家禄を継ぎ伊予大洲藩士となる。27才大洲藩士を辞して小川村に帰郷する。以後慶安元年(1648)82541才で没するまでの14年間、居宅に私塾「藤樹書院」をひらいて武士や近隣の庶民に「良知心学」を教え広め日本陽明学の祖とされている。没後近江聖人と讃えられています。
 その知と行を両立させようとする誠実さには官学や幕府を警戒させた。明治時代も政府に警戒され教育勅語等の修身教育に形だけ重用され戦後は封建的と軽視された。
 しかし三島由紀夫は自決直前「革命としての陽明学」で大塩の「望みなき暴動」を身の死するを恨まず心の死するを恨む」ものとして讃えている。また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として藤樹をあげ、その理由を彼が人の作った「法」よりも永遠に存在する「道」を重視したことを特に強調している。陽明学について最も適切な学問の解説ではないかと考えている。
大塩平八郎や三島由紀夫の生き方は別として人には人の道があることを21世紀を過ぎた現在もここから学んでほしいものだ。
注 2012/11/21に掲載した記事を加筆し修正したものです。

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