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生田の森







都心近くに風情のある森が境内に残されています。参詣した際にはこの森は必ず訪れることにしています。生田のもりについて生田神社のWEBから引用しますと

生田の森は、古くは北に六甲の山脈がそびえ、南北狭く東西長く、旧生田川(現在のフラワーロード)あたりまで及ぶ広大な森林でした。鎌倉・室町時代の動乱期には、生田川をひかえた大森林であったため、軍事的な要衝地で、古来よりしばしば合戦の舞台となりました。中でも、平安末期、寿永3年(西暦1184年)2月の源範頼の率いる源氏方と平知盛の率いる平家方の戦「源平の合戦」であり、源氏側の武将、梶原源太景季が箙に境内の梅の一枝を射し戦ったという風流武士の逸話があります。また、室町時代以前の南北朝争乱では、楠木正成・新田義貞軍の南朝方と足利尊氏軍の北朝方との合戦地となり、戦国時代には、織田信長軍と西隣にある花隈城主荒木村重軍との合戦地にもなりました。
そのように度々合戦地として歴史上に登場しますが、生田の森は古来歌枕としても名高く、風雅なところとして文人墨客(ぶんじんぼっかく)に親しまれました名勝の地でもあります。順徳院がお詠みになられた歌に「秋風に又こそとはめ津の国の生田の森の春の曙」上田秋成の詠まれた歌に 「潮なれし生田の森の桜花 春の千鳥の鳴きてかよへる」などの名歌が数多く詠まれておりまして、清少納言の枕草子には「杜は生田」という記述がみられる等、我が国を代表する森として歌人がこの森を訪れては多くの和歌を詠みました。
時代が進み現代に至るまでの間に、この生田の森は様々な災害に遭いながらも、生田神社の鎮守の杜として今日まで脈々として守られてまいりました。近年では昭和20年6月5日の神戸大空襲により、生田神社本殿をはじめ境内全域に亘り、この生田の森も楠をはじめ多くの木々を焼き尽くしましたが、自然の力、生命力は限りなく強く、数年後には楠の巨木から次々と芽を出し、鎮守の杜として蘇っております。
昭和49年には市民の森に指定されましたが、この鎮守の杜の御神域には人の入る事を許可せず、また、全く人の手を入れず、うっそうとした楠の樹木の森でありました。しかしながら昨今の環境の目まぐるしい変化に伴い、神社としては何かこの鎮守の杜を永く後世へ伝え守っていかねばならないと考え、御鎮座1800年祭(西暦2001年)を記念し、森の中心に由縁深き神功皇后様をお祀りする御社『生田の森に坐す社』を建立し、井戸を掘り真清水を汲み上げ、森の中に小川と遊歩道を造成し生田の森の整備を完遂いたしました。
この森の中には何百年もの年輪を刻む楠の御神木も数本あります。今日では、神戸三宮の都会のオアシスとして多くの方が訪れ、安らぎと活力溢れるスポットとして親しまれています。

と説明されています。

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