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大塩平八郎の旧跡



            洗心洞跡と大塩平八郎顕彰碑
顕彰碑には、次のように刻まれています。

大塩平八郎中齊の家塾    洗心洞旧跡
 大塩平八郎は、寛政五年(1793)に大坂大塩家の八代目として、初代からの屋敷であったこの場所で生まれた。初代は六兵衛成一といい、名古屋にある本家の大塩波衛門義勝の三男であって、大阪町奉行所付きの与力となり、代々その職を継承してきた。平八郎は七歳の時父母に死別し、祖父母の育てられ一四歳で早くも与力見習となり出仕した。成年に達した後、祖父政之丞の跡を継いで与力となり、天保元年(1830)三十八歳のとき退職して、養子格之助にその職を譲るまで、二十数年間与力の職にあり、清廉潔白かつ学識ある名与力として多くの功績を挙げ、その名声は天下に聞こえた。
 平八郎は、青年時代に三度び人生観の転換があり、遂に王陽明の学問に心酔して、二十四・五歳頃から自邸で儒学の講義をしていたが、文政八年(1825)学塾を開き「洗心洞」と名付けた。洗心とは、易経繋辞伝に「聖人此レ以テ心ヲ洗ヒ、退イテ密に蔵す」とある文から採り、洞というは塾舎の意味である。屋敷内に講堂と塾舎を設け塾生を寄宿させ、通学生と共に日夜文武両道を教授した。その門弟は、四・五十人に達したという。学風は非常に厳格で、子弟の名分を正し、知行合一の実学を重んじた。号を中齊裁と称し、著書に「洗心洞箚記」の外数種の名著があり、その他の詩文も名作である。
 天保八年(1837)前年よりの飢饉によって、難民が多く出たことを見るに見かねて、一身を犠牲にして救民運動と政治党醒運動を起こしたが、事遂に成らず、同年三月二十七日靱(大阪市西区)において格之助と共に自刃した。行年四十五歳であった。付近には砲弾により裂かれた槐が残っている。
 今ここに大阪市が記念碑を建てられるに当たり、その由来を略記してこれを顕彰するのである。 
 なお、大塩平八郎父子の墓は、大阪市北区末広町成正寺にある。        
造幣局



与力門
大塩の乱跡 砲弾に裂けた槐の記念碑
大塩平八郎終焉の地 大阪市西区靫本町
天下の台所大坂で、しかも元幕吏によって起こされたこの事件は、幕府にも、一般市民にも大きな影響をあたえました。この「大塩の乱」の決起は僅か半日で失敗に終わったが、幕藩体制崩壊の重大な契機となり、民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。
 大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、30年後の大変革である明治維新の先駆けの役割を果たし、近代国家日本の誕生に 結びついた役割の大きい事件であった。
 とかく損得勘定にさとく犯罪の発生とその加熱報道などから、「恐い」「柄が悪い」などの悪いイメージが持たれているが、これは大阪でも現在も打ち消すことはできない事実ではあるが。
 しかしかつては普通の人間である与力という下級役人大塩平八郎のような気高い人物も存在していたことを知ってほしい、そして少しでも誰かがこの歴史から学んでほしいものだとと願う。
 そして迫害されねつ造され抹殺された史実を見直し墓所造営、顕彰碑そして研究部会の設置などが行われその名は現代も語り継がれている。
 

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