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阿保親王塚

芦屋市域最古の前期古墳で、4世紀後半の築造とされる。
芦屋市翠ヶ丘町にあり、六甲山の南麓である翠ヶ丘台地上に立地する円墳で径約36m、高さ約3m、周囲356mを測る矩形をなす大きさです。
毛利家文書によると、江戸時代に大修築が行なわれため本来の墳丘の規模は定かではありません。学術的な発掘調査は全く実施されていませんが宝永年中(1704~1711)に副葬品の一部とみられる銅鏡10枚が出土しています。四神二獣の三角縁神獣鏡が保存されている古墳です。
古墳名は毛利氏改修のころまでさかのぼる事ができますが、現在阿保親王塚として宮内庁書陵部が管理しています。阿保親王の没年(842年)よりも500年ぼど古い古墳です。
その。本墳の性格は、翠ヶ丘古墳群の最有力首長墓で、多量の三角縁神獣鏡の存在から、畿内政権と直接結びついた被葬者を想定することができる古墳です。







凄まじいほどの開発や土建工事が行われ続けている阪神間にこのような1500年前の古墳が残されていることは奇跡にも近く将来も開発されることはないものと思われます。
NIKON D3000 DX AF-sNIKKOR18-55 1:3.5-5.6G VR ISO 400 絞り優先

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芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

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