スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2009の投稿を表示しています

MALLARD

蒸気機関車として203㎞の世界最高記録を持つマラード号の00ゲージの模型が我が家にやってきた。00ケージは軌間16.5㍉で実物の1/76の大きさである。デザインは素晴らしくいかにも高速で走行できることが想像できる。 マラード号について調べて見ると、 ナンバー4468 マラード (4468 Mallard) はロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道の蒸気機関車である。この機関車はナイジェル・グリズリー卿(Sir Nigel Gresley)によって設計され、1938年イングランドのドンカスターで製造された。 風洞実験を利用して設計された空気力学的に優れた車体をもち、時速160km以上の速度で走ることができた。1963年に引退するまでの間に走破した距離は、およそ240万キロ。1988年に50周年を記念して動態に復元され現在はヨークにある英国国立鉄道博物館のコレクションの一部として保存されている。マラード号の全長は21m(70ft)、総重量は165t。車軸配置は4-6-2である。 1938年7月3日、イースト・コースト・メイン・ラインのグランサムにあるストーク・バンクの下り坂でマラード号は時速203km樹立されという蒸気機関車の世界最高速度記録をもっている。 現在のところ、マラード号は未だにタイトルを保持しており、車体の側面にこれを記念するプレートがつけられている。

秋の味覚

秋の味覚。渋柿だがいい色をしている。そして落下した栗は大きくいがのみが路肩に残されている。芦屋のこのあたりイノシシが出没するので食べているのであろうか。

甲山88箇所石仏巡礼第11番

第11番札所金剛山一条院藤井寺 本尊 薬師如来 開基 弘法大師 徳島県吉野川市 弘仁6年(815)に、弘法大師の開基とされる。大師42歳の時、諸人と共に厄難を除くため薬師如来を刻み堂宇を建立した。 この本尊は、実際は平安時代の年号の銘が入っており、年号が入るものとしては四国霊場最古の仏像といわれる。国宝にも指定されている。             甲山石仏巡礼の道

携帯スナップ

運動会が開催され立ち寄った際に撮影した画像とともに散策の際に撮影した画像を掲載した。 レタッチしつつ思うのはデジタル画像としては特に問題はなく十分使用できることに関心させられている。 よく映るということは暗部も明部もそれなりに写しこまれ誰がどこで撮影しても同じような画像ができる。ということで視点を強調した画像が出来ない。が満足している。               秋空の下、爽やかな運動会           廃屋の緑、いずれこの地も更地になるのであろう。                伊丹空港南ターミナル風景。                    神戸長田神社社殿          花壇が丁寧に植え込まれた壁。手入れが大変だ。

Academy-Bar

1922年開業の建物でツタが絡まり続けて、緑の塊のようにも見える。窓ガラスはなつかしい すりガラスで、建物は一見して年代物であり、阪神大震災にも耐えてよく残っているのが不思議な風情でだのバーである。 阪急電車が上筒井が終点であった頃に谷崎潤一郎がよく訪れたと記録されている。戦災でやられ加納町交差点すみに転居し現在まで多くの文学者や画家が訪れている。 中には神戸で活躍した洋画家の大先生たちの絵が名刺代わりに壁に描かれている。小磯良平、田村孝之介、竹中郁、小松益喜、伊藤継郎、小出卓二、津高和一・・・などの芸術家が 作品を残しているとのことである。 現代の作家や画家が語り合うという場を持たずマンションの一室でパソコンの前で過ごし自己満足した作品を書いているのであろうか。対談を読んで見ても人の話は聞いていないようだ。 アカデミーバーは三宮からフラワーロードを北へ、加納町3丁目の交差点の北東の角に秘やかにたたずんでいる。お店の入り口には 『翰林院酒肆』(「カンリンインシュシ」と読む。という看板が架かっています。 私は酒を飲めないので飲む人と訪れたいと思っているがまだ果たせないでいる。

北野工房のまち

三ノ宮駅と元町駅の間の港から山手に向かうトーアロードに面した北野工房のまちは、「神戸ブランドに出会う体験型工房」である。 「校舎の面影を極力残す事」をコンセプトに、旧北野小学校の校舎をリニューアルして1998年にオープンした。館内にはアンテノール、ゴンチャロフ、UCC、ベニール、モロゾフといった神戸ブランドの著名店が入居しており、販売を行っているほか、各店で革小物や化粧品、ピッツァ、珈琲、パン等の製作を体験できる。 三ノ宮駅、新神戸駅から15分程度で北野異人館街の近くである。 北野小学校は1908年(明治41年) に開校され、、震災後1996年(平成8年)に閉校された87年の歴史を誇る由緒ある小学校であり、校舎を保存して欲しいという要望が持ち上がっていた。 トアロード復権の拠点に、「工房のまちづくり」を提唱し神戸市、(財)神戸ファッション協会、(財)神戸市都市整備公社によって、北野工房のまちが1998年7月に誕生。 廊下や階段、駐車場になっている運動場への出入り口は学校の面影が残り懐かしい風景が見ることができる。 今回は新しいデジカメの試撮で取り込んだ。

大阪駅工事風景

大阪駅北ビルの工事により変わりゆく風景を今回携帯カメラで撮影した。日々高層階の骨組みが仕上がり変貌が激しい時期である。 関空特急はるが号が通過したので撮影したが携帯ではシャッターチャンスが難しいがかろうじて取り込むことができた。

丹波の山

とんがり山と井根口池。この山は標高620メートルで四斗谷から1時間ていどゆっくり登ることが出来る。頂上は4.5人も座れないピークとなっている。 こじんまりとした火の見櫓と消防信号。背後の山は秋や冬ら何度か歩いた白髪岳は初秋のこの時期は穏やかさが漂っている。 この半鐘は使用されることがあるのだろうか。

天王寺七坂逢坂

天王寺区松屋町筋の終点、合法ヶ辻から東へあがって四天王寺西門に至る坂道である。逢坂は、逢坂の関になぞらえてよんだものとも、他の説では聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせたと言われた「合法四会」に近いことにより合坂と名付けられたなどの諸説がある。 上町台地を歩くと古代から近代までの歴史が積み重なり現在の大阪が形成されたことが史跡により教えてくれる。このような歴史の重みが課程が何ら現在の行政に生かされていないことが沈滞、地盤沈下を自ら招いているようだ。 正面は日本3大鳥居の一つ「石の鳥居」で1294年(永仁2年)の建立とされている。 三大鳥居の他の二つは金峰山時(吉野)、厳島神社(広島)がある。仏教寺院の四天王寺に鳥居があるのは鳥居は、現存は少ないがかって仏教施設とされていたためである。とされている。 奥に見えるのは西大門と五重塔。日本初期によればによれば推古天皇元年(593年)に造立が開始された。戦乱や火災、戦争等により焼失しそのたびに復興されている。現在の伽藍は1945年の大阪大空襲で焼失し復興されたものである。 四天王寺周辺の区名、駅名などに使われている天王寺は四天王寺の略称である。

天王寺七坂の文学碑  

家隆塚(伝 藤原家隆墓) 藤原 家隆は 1158~1237(保元2~嘉禎3)鎌倉時代の歌人。 『新古今和歌集』の撰者。三十六歌仙の一人。壬生中納言藤原光隆の子。幼いころから鋭敏で和歌を藤原俊成に学んだ。藤原定家と並称され二人はお互いに許し合う仲であった。侍従・宮内卿を歴任、1235年(嘉禎元)に従二位に昇進している。翌年には出家した。 定家に比べより自由闊達な歌をつくり、かつ多作で知られ頓阿の『井蛙抄』には家隆が6万首の歌を詠んだことが見えている。その歌集を『壬二集』と言い3巻から成り、他に歌論集『家隆卿口伝抄』を著している。 『千載集』や『新古今和歌集』にその歌が多数とられ、当時の歌合にもしばしば名を列ねている。後鳥羽上皇が歌の師を藤原良経に問うたとき良経は家隆を推薦している。 良経は家隆を当世の人麻呂と言ったという。家隆は後鳥羽上皇の親昵するところの歌人であった。世に壬生二位を称され享年80歳であった。 かつて大阪湾は四天王寺の西側まで迫っており、上町台地からは水平線に沈んでいく夕陽の姿を拝することができた。 1236(嘉禎2年)、この上町台地の地に夕陽庵(せきようあん)を設けるとともに、夕陽を見て極楽往生を願う「日想観(にっそうかん)」を修め、翌年正座合掌しながら往生しました。 「夕陽丘」は、この庵名に由来すると言われている。 織田 作之助文学碑 「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。と「木の都」の一説が刻まれている。     1996年に撮影したネガがありスキャンし掲載した。このカメラは長年使用したライカミニルックスでカメラにはほとんど関心がなくなりほとんどこのカメラで撮影していた。 ネガも残っているので整理しつつ過去の画像をアップして行きたい。

天王寺七坂清水坂

新清水清光院に登る坂道をいう。 高台にある新清水てら境内からの眺望は格別でさらに境内南側の崖から流れ出る玉出の滝は大阪唯一の滝として知られている。 またこの付近一帯は昔から名泉どころとして知られ増井、逢坂、玉出、安居、土佐、金竜、亀井の清水は七名泉と呼ばれている。 と坂の案内板に掲げられていた。 この愛染坂、清水坂は始めて歩いたが難波の展望があり夕焼けの頃は大阪では想像できない景色が見られるのではないか。と思いつつ歩いた。 七名泉の一つ金竜清水の井戸がつるべとともに保存されている。 清水寺(きよみずでら)は、四天王寺の支院である。 四天王寺の金堂の下にある青竜池から湧き出ている霊水が、滝となって流れ出ているといわれる「玉出の滝」で知られている。この滝は大阪市内唯一の天然の滝である。 1640年に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)が観世音菩薩 の御告げを受けて京都の清水寺 を模して舞台造の本堂を建立したと伝えられている。 こうして見ると玉出の滝は京都清水寺の「音羽の滝」に良く似ているが立地条件としてこの水は飲用できない。

梅田スカイビル秋色

大阪のランドマークとして定着した地上40階173メートルの連結超高層ビルに所用があり持参したカメラで秋色の青空を背景に撮影した。