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大悲閣千光寺

大堰川の右岸を約1㎞歩き100メートル山道を登ると渡月橋などから見える大悲閣がある。
桜を眺めながら絶景の名のとおり比叡山から東山、市内が一望できる。






750年前に建立された大悲閣千光寺は禅宗寺院で、角倉了以(1554-1614)が、 河川開墾工事に協力した人々の菩提を弔うため、 嵯峨中院にあった千光寺の名跡を移して創建したものである。
角倉了以は、大井川、富士川、 天竜川、高瀬川等の、河川開発工事を行い、 又豊臣秀吉より朱印状を得て、海外貿易を行った。
晩年は、この大悲閣に隠棲し、慶長19(1614)年7月、 61歳で亡くなった。
本尊の千手観世音菩薩は、 恵心僧都の作と伝えられ了以の念持仏でした。尚大悲閣とは、 観世音菩薩像を安置した仏堂をいいますが、 特に、この千光寺のことを言う。
了以の像は、法衣姿で石割斧を持ち片膝を立てて太綱の上に座し今も川の安全を見守っているようだ。

客殿の閣で景色を愛でていると機関車の音が聞こえ嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車が運転されてきた。この大悲閣と嵐山の山腹にさく山桜を眺めるために停車していた。

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